教育・研究活動
研究開発

山内 一信(兼任教授)

■研究開発事項

  1. 圭介生誕200年記念シンポジウムへの企画
  2. 圭介日記の解読

■研究開発概況(テーマごとの課題内容と成果、今後の課題等)

平成15年10月17日から同月30日まで附属図書館で開催されるシンポジウム企画に向けて名古屋市東山植物園伊藤圭介記念室に寄贈された資料の分析および圭介日記の解読とそこから得られる圭介の医学・医療への貢献について調査し、以下の結果を得た。

1. 圭介の医学の流れについて

圭介は博物学者、本草学者、蘭学者として知られているが、蘭学者、医師としての考え方とか、思想についてはよく知られていない。圭介の医学の出発点は町医である父、西山玄道と尾張藩医である兄、大河内存真であり、基本的には漢方であったと思われる。文化7年より父西山玄道に従って本道を修行し、文政3年に二段席町医として壱人立した。当時、名古屋の町医総取締役を与かる浅井医学館からの影響は強く、とりわけ当主の浅井貞庵(平之丞)の影響は強かったようである。当時の漢方は古方派(証に基づいて処方)と後世派(病因、病機に基づいて処方)とに分かれていたが、浅井家は古方を嫌い、後世方を推奨したとされる。従って圭介もその影響をうけていたと思われるが、後世方にはある程度距離をおいていたという見方もある。ここで大切なことは、当時の浅井医学館は漢方主体、漢方固執であったが、平之丞は蘭学に寛容であり、このため名古屋における洋学はある程度は発展し、また圭介の蘭学の修学に対してもネガティブな影響は与えなかったようである。

2. 従来の本草学に対して科学的な新しい植物分類法の導入

圭介は壱人立の後、京の藤林普山に入門し蘭学の基礎を学び、尾張の帰ってからは吉雄常山にも入門して蘭学についての知識を深くした。さらに『菩多尼訶経』に刺激を受け、西欧への好奇心をつのらせた圭介は、文政9年、江戸への参府途上のシーボルトに宮の熱田で会見し、翌年入門した。帰郷時シーボルトから与えられたチェンベリ著書『Flora Japonica』の新しい植物分類法は圭介にとっては驚き以外の何物でもなく、その日本語訳は日本の科学発展のためには最重要課題であったと思われる。その決意と意欲は堅く、自宅の屋敷や土蔵をも質物に入れて328両もの金銭を工面し、文政12年『泰西本草名疏』として刊行させた。
 また圭介の蘭学への関わりを示す『ターヘルアナトミア』の原本となった『ONTLEEDKUNDIGE TAFFELEN』が圭介の遺物として東山植物園伊藤圭介記念室に保存されている。ちなみに、『ONTLEEDKUNDIGE TAFFELEN』は日本に4冊しか現存しておらず、この1冊は圭介が長崎遊学中に大通詞吉雄権之助から譲り受け、大切に伊藤家に受け継がれてきたものという。圭介の蘭学者としてこの本を得るに足る力量があったことがうかがわれる。

圭介がシーボルトとの関係を重視していると考えられる掛け軸が東山植物園伊藤圭介記念室への寄贈品の中から発見された。ここには烟草とハシリドコロの図が描かれ、明治25年9月13日、齢九十彩人伊藤圭介識とある。この謂れについては、宮の熱田でシーボルトと会見した時に、これらの植物の種子を水谷豊文がもらい、それを播いて育てたものを豊文が写生し、その絵を圭介に渡したものという。この軸は圭介の末裔の方が大事に保存していたものであり、改めて圭介のシーボルトへの思い入れと深い関係が伺い知れる。

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